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第7回:健康・医療の業界構造を変える保険の新サービス

<はじめに>

保険は不思議に満ちている。先日、自分の保険を確認する機会があった。社会人になりたてのころに入った、27年も前のモノである。考えてみると、社会人になって無茶を重ね、飲み会の後にラーメンを食す日々が続き、体重とストレスがスゴイことになっているのだが、保険の条件が変わらないのはなぜだろう。心身ともに負担のかかる27年を過ごしてきた自分と、心身ともに健康的に過ごしてきた同世代の人が、同じ条件で保険が適用されていいのかと不安になるのだが。

今、保険の世界は大きな変化を迎えようとしている。専門的には生命保険 (死亡保障) と医療保険は別モノであるが、いずれも契約は個人を対象としつつ、内容は均一・平均的な匿名大衆を対象に設計されているから、保険は「匿名」を前提としてきたと言って良い。ということは、本連載の主テーマ「匿名経済から顕名経済へのシフト」は、必然的に保険の考え方にも大きな変革を強いることになりそうだ。

今回は、中国の平安保険の事例から保険の顕名化について考えてみたい。第4回で自動車保険に顕名化の動きがあることを紹介した。今回は生命保険・医療保険が主テーマである。顕名を前提とする保険のサービスはもちろんのこと、それが波及して健康・医療に関わる業界構造の変革の可能性についてもふれてみたい。

<平安保険の登場>

中国平安保険は2015年にスマホアプリ「好医生 (Good Doctor)」の提供を始めた。ヘルスケア、医療、薬、育児、さまざまなサービスが受けられる。アプリそのものは無料で提供され、既に3億人の利用者がいるとも言われている。

「好医生」は、利用者にとって嬉しい機能が満載だというが、付随するサービスにも驚かされる。例えば、アプリが歩数計になるのだが、歩数分のポイントをヘルスケア商品などと交換できる。さらには、身体の具合が悪くなったときに、たまったポイントを使って平安保険のお抱え医師の遠隔診断を受けることもできる。中国では医者選びは難しく、平安保険がお勧めしてくれる医師の診断が受けられることは大きなメリットだという。さらに、その結果、治療や手術に費用が発生した場合に、平安保険の外交員から「あなたの契約ならこの保険が適用になります」と提案されるというから驚きである。

「好医生」の変革の本質はどこにあるのだろうか。いうまでもなく「好医生」はデジタルテクノロジーを駆使している。モバイルアプリ、IoT機能、クラウドサービス、詳しく調べていくと、データ分析やAIの活用も驚異的に進んでいる。技術面から見ても革新的であると言っていい。とはいえ、技術視点だけでは変革の本質は理解できそうにはない。

従来、顧客と保険会社の接点は「契約時」と「何かあった後」である (図1)。日本の保険の定義に従うと、医療保険は怪我や病気を患ったときに、生命保険 (死亡保障) は不幸があった後に連絡することが多い。冒頭に書いた通り、何もなければ保険会社と連絡を取ることはないし、保険会社なんて疎遠な方が良い、と言われる所以でもある (笑)。

平安保険の戦略の鍵は、「個客との間に多数の生活接点を持つ」ことである。個客の運動や健康を把握し、医療や薬をつなぎ、育児にも携わる。必要があれば、個客からの連絡を待たず平安保険がサポートをする。個客に寄り添ったサービスであり、利用者の多くが「平安保険のことが大好き」だと言っていることも頷ける (生命保険会社のことを「大好き」と言う状況はそれこそ驚きである)。平安保険は誕生から (育児もサービス範囲)、運動・健康状態、医療、保険まですべてをサービスの一部と捉えている (図2)。平安保険は、個客価値を重視する「顕名」の考え方を前提に、サービス面でも驚異的な変革を進めている。

平安保険の事例は保険の市場構造にも大きなインパクトを与えた。以下では、保険のビジネスモデルの視点からそのインパクトについて考えてみよう。

従来、保険は統計と確率に基づいていた。どんな病気で、何歳で亡くなる人が、どのくらいの率かを、マス (大衆) を対象に把握し、市場全体でバランスが取れる程度に保険料を定めてきた。そのため、一人ひとりが運動しているかどうか、病気かどうかを気にする必要はなかった。(大数の法則により、市場全体で統計値に近くなることは明らかである)。保険は「匿名」を前提としており、これが、保険会社が顧客の生活に興味がない主な理由である。

平安保険は、個客一人ひとりを特定する「顕名サービス」を提供する。個客が支払うのは、平均化されたリスクに対する互助的な安心料ではない。保険料に相当する部分は統計値によるところが大きいが、利用者の中には有事の医療支援など、一人ひとりへのサポートへの対価だと感じている人も多い。

このことは、企業の経営指標にも表れる。従来の生命保険は個客を特定しない。市場全体で帳尻が合うことが前提であり、市場全体での収益性を優先するケースが多い。(日本郵政による保険販売の事例は記憶に新しい)。一方、平安保険はNPS (Net Promoter Score®) と呼ばれる顧客満足度の指標を重視する。サービス設計にも、外交員の意識にも、大きな差が生まれるのは必然である。

<健康・医療業界再編の可能性>

平安保険の事例は、他の業界にも大きな影響をもたらした。これまで別々の世界と考えられてきた業界に新たな「つながり」が生まれつつあることを紹介したい。

従来、家庭、ウェルネス(Wellness,健康)、メディカル(Medical,医療)、保険は分断されてきた。家庭で計測した血圧がウェルネスと共有されることはないし、ウェルネス分野である運動した情報が病院に共有されることもない。前述の通り、保険は何かあったときにしか連絡しない。これらの間に情報連携の仕組みはなかった (図3)。

平安保険は、個人の健康と医療・薬の情報をつないだ。運動しているかどうかや健康状態も、遠隔診断で医療サービスを受けていることも、投薬の情報さえも把握する。何かあったときには、保険会社から個客に保険サービスの提案が届く。家庭、ウェルネス、メディカル、保険の間を結び、相互に連携し、つながりの W+M (Wellness + Medical) とも言える、新しい構造が生まれつつある (図4)。

中国では、ウェルネス とメディカルをつないだのは平安保険だった。本来、業界の間は「空白地帯」であり、健康・医療・保険の間を「つなぐ」のが保険会社である必然性はなかったはずである。デジタルテクノロジーを活用し、データ戦略に基づくビジネスモデルを構築し、業界の再編を視野に入れた壮大な変革を推進する平安保険の挑戦には驚くばかりである。

<おわりに>

今回は中国の平安保険の事例を参考に、保険業界のビジネス構造が大きく変わりつつあること、さらには健康・医療など、これまで分断されていたはずの業界を再編する可能性がでてきていることを紹介した。その変革の背景にあるのは、デジタルテクノロジーの活用・浸透を背景とする、匿名経済から顕名経済へのシフトがあることは言うまでもない。

ところで、少々気になることがある。日本で、健康・医療・保険の業界再編は起こるだろうか。また、その再編のきっかけを作るのはどのプレーヤーだろうか。法制度やプライバシーへの市場意識の違いから、平安保険の事例をそのまま日本で応用することは難しいかもしれない。だが、平安保険の事例は参考にすべきヒントに溢れている。匿名経済から顕名経済へのシフトを前提に、高度なデジタルテクノロジーの活用と深淵なデータ戦略を推進するプレーヤーが日本市場にも登場することを期待したい。

本内容の引用・転載を禁止します。

第6回:原価から成果へ

<はじめに>

私は鼻炎に悩まされている。血液検査で代表的なアレルゲンに反応はなかったが、症状は明らかにアレルギー性鼻炎だという。それ以来、いろいろな鼻炎薬を試してみているが、これがなんとも難しい。眠くなるのは困るし、全く効かない鼻炎薬も多く、時間とお金だけを浪費していく。最近、ようやく良さそうな薬に出会ったが、それまでに相当な費用をかけたように思う (涙)。

ふと考えると、なぜ私は「効かない薬」のためにお金を支払ったのだろうか。もちろん、薬に値段があることは理解しているが、その薬が「外れであることを確認する」ためだけに、何十錠も箱詰め・瓶詰めされた薬を定価で購入する必要はあったのだろうか。もし、効果のある薬が見つからなかったら、私はどれだけ散財したのだろうか (いや、その前に別の手段を考えろ、とも思うが、笑)。

何をばかなことを。そんなの仕方ないだろう。 という声も聞こえてきそうだが、ホントにそうだろうか。

今回は「価格」の視点から上記の話を考えてみたい。以下では、本連載のテーマにならって、匿名取引と顕名取引での「価格」の考え方を比較しながら議論を展開してみよう。

<ノバルティスの挑戦>

医薬品メーカーのノバルティスは、薬を提供する新しい事業モデルにチャレンジしている。イノベーティブな変革は2つある。ひとつは、薬メーカーでありながら、「薬を販売する」のではなく、「患者一人ひとりをサポートする」こと。もうひとつは、薬を作るのにどれだけの原価がかかったから値段はいくら、ではなく、個客が得られた成果に対して対価を求めるモデルに変革しようとしていることである。以下、少し詳しく見てみよう。

同社が提供する「ジレニア」と呼ばれる薬がある。20代から30代の女性にみられる「多発性硬化症」向けの薬である。この病気は認知が難しく、再発しやすく、治療に時間を要するという。ノバルティスは単に薬を売るのではなく、患者一人ひとりの状況を詳しく把握することからはじめた。患者の症状にあわせて治療プログラムを提案し、治療や投薬履歴、症状の変化をプラットフォーム上で管理し、遠隔モニタリングを含めたサポートサービスを展開しているという。

ノバルティスが提供する患者サポートサービスは患者一人ひとりの病状を把握し、回復まで寄り添って支援することで、個客が健康を取り戻すところまでをサービスとして提供する。薬局で匿名大衆に薬を販売する、あるいは病院に患者の対応を全面的に任せてしまう形ではなく、薬メーカー自らが、患者一人ひとりのモニタリングとサポートを行うということはとてつもないチャレンジであろう。

薬を売ったら取引完了、ではなく、患者がなぜその薬を必要とし、どうやって健康を取り戻すかを考えた「つながりの取引」の事例として注目に値する。

<成果報酬型のビジネスモデル>

ノバルティスは、成果報酬型で薬を提供するビジネスモデルでも注目を集める。日本では法制度が追いついていないために提供に時間を要しているが、米国など海外では既に成果報酬型の薬の提供がはじまっている。薬を売ったからいくらという供給側・提供側の事情による値付けではなく、患者の病気が完治・改善したらいくらという個客の成果に基づく値付けである。

匿名取引、すなわち、交換の取引では、商品やサービスを提供した後、個客の状態を知る手段はなかった。そのため、原材料費、物流費、人件費などの供給側のコストをベースとして商品やサービスの値段が決まる、と考えることが一般的である。

一方、顕名取引、すなわちつながりの取引では、個客が“なぜ”その商品やサービスを必要としており“どのように”そのサービスを使い、“どのような”メリットを享受したか、あるいはどのような成果を手に入れたかを重視する。個客価値が可視化されると言っても良い。

「原価」などの提供者の理屈に基づく価格ではなく、個客が得る「成果」で価格が決まる。 これも、匿名取引から顕名取引への変革の本質を表している。

<つながりの時代の価値モデル>

匿名経済から顕名経済へのシフトは、価格の意味を大きく変える。ここでは、それぞれの取引モデルにおける価格の考え方を整理してみよう。

匿名取引、すなわち「財やサービスを貨幣と交換する」場合、個々の取引では、

「価格 = 原価 + 利益 (提供者余剰)」

と考えるのが一般的である。大量生産・大量消費を前提とし、匿名大衆を対象とする商品では、市場で受け入れられる利益幅を考慮して価格が決定されることはあっても、個々の商品(あるいはサービス) で値段が違うことはない。個々の取引で、お客様にどれだけの価値を提供できたかを考えることはないし、取引後 (交換後) に個々のお客様がどのような価値を得たかを知る手段もない。

一方、顕名取引では「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを重視し

「価格 + 個客余剰 = 個客価値」

であると考える。個客価値を考えることは、なぜ個客がそのサービスを必要としているのか、すなわち、個客一人ひとりの why を考えることにも相当する。つながりによって、個客の成果が可視化されるからこそ可能な価値モデルであるともいえる。

なお、顕名取引における個客余剰の可視化は、さらに重要な意味を持つ。個客余剰は個客の満足度であり、そのサービスへのロイヤルティにもつながる。つながりの取引においては、個客一人ひとりの満足度を高め、継続的にサービスを利用してもらうことは極めて重要である。個客余剰はその指標にもなり得る。

<おわりに>

匿名経済に慣れ親しんできた我々は、商品に値段があることを当然と考えている。それが、自分にとって価値あるものであれば問題はないが、本当に価値があるかどうか、意味があるかどうかを確認する前であっても、対価を支払って商品を「購入」しなければならないことも往々にしてありえる。

本連載で議論してきたとおり、匿名経済から顕名経済への変化は大きなパラダイム・シフトである。「財やサービスを貨幣と交換する」ことから「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを重視するモデルが広まりつつある。つながりの時代、個客一人ひとりがどのような価値を得たかを可視化し、その成果に対して個客余剰が得られるよう対価を設定することで、より納得感のある取引が可能になることに期待したい。

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第5回:個客一人ひとりに合わせた商品

<はじめに>

筆者の足は少々横幅が広い。自分の足幅に合う靴を探すのも難儀である。先日も、靴を新調して気分良く仕事に出かけたが、家に帰るころにはすっかり足が痛くなってしまった。

足の形は人によってだいぶ違うらしい。足の長さや幅だけではなく、踵の幅や、甲の高さまで千差万別だとか。なるほど。これまで「26cmで少し横幅が広め」くらいしか考えたことがなかったが、考えが浅かったらしい (笑)

靴選びは難しい。店頭で試し履きしても合わないのだから、靴がネットで買えるのはずっと先か、と考えていたが、、、

ここにも「匿名経済から顕名経済へのシフト」を考えるヒントがある。これまで紹介してきた通り、「個客」を特定し、一人ひとりに紐づく情報を参照できることが「顕名取引」の特徴である。ということは、私の足のサイズや形の情報を参照することで、私に合った靴をネットで買うこともできるのではないだろうか。

<ZOZOSUITの衝撃>

2017年11月、株式会社スタートトゥデイ (2018年10月に株式会社ZOZOに社名変更) が “ZOZOSUIT” を発表した。そのコンセプトは斬新で、ニュースを見たときは、驚きで椅子から転げ落ちそうになった (笑)

ZOZOSUIT は「採寸用ボディスーツ」として登場した。その名の通り、外出用のスーツではなく、身体のサイズを図るためのものである。着用すると、スーツ内に埋め込まれたセンサーで、その人の体型を15,000箇所も「採寸」するというものだった。同社は「一人ひとりの体型に合わせた」服を提供する、というコンセプトを打ち出した。

昔から、オーダーメイドの服を欲する人はいる。専門店に行き、身体の隅々まで細かく採寸してもらうことで、一人ひとりに合わせた服を仕立ててもらう。値は張るが、ジャストフィットする服を、自分だけのために作ってくれるのだから、私のような庶民からすると一種の憧れもある(仕立ててもらったことは、ない。笑)。

例えていうと、オーダーメイドの仕立屋は「一見さんお断りの小料理屋」に似ているかもしれない。顔が見える上得意のお客様向けに、一人ひとりの好みに合わせた料理を提供するようなものである(噂に聞くだけで、そういうお店に入ったことはない。笑)。

「オーダーメイド」や「一見さんお断り」が成り立つのは face-to-face だから、とされてきた。一人ひとりを特定し、その人に合わせてサービスするので、当然と言えば当然だが。

一方、ZOZOSUITは、ネット販売でありながら、オーダーメイドの服を仕立ててもらうかのようなサービスを受けられる。これは、衝撃だった。

<匿名経済と顕名経済>

ユニクロやシマムラなどで市販される服は、標準的な何通りかのサイズの服をメーカーが準備し、消費者が自分の身体に合うものを選ぶ。デザインや色などの見た目、生地の良し悪しや肌触りなども重要だが、そのあたりは見聞きした情報で想像もできる。重要なのは、フィット感である。私もちょっとした服を買うときには必ず試着し、フィット感を確認することにしている。

これは、商品が決まっているファストフードで、自分が食べたいメニューを選ぶようなものである。メーカーは、匿名大衆に向けて、大量生産で商品を生産する。我々は、その中から自分の好み (やサイズ) が合うものを選んで購入する。取引は「お客様が誰か」に関係なく「商品をお金と交換する」ことで完了する。すなわち、匿名取引である。

対して、ZOZOSUIT が目指したのは、寸法に関する情報を一人ひとり個別に把握し「個客」一人ひとりに合わせた服を作ることだった。いろいろな理由から、結果的に消費者の手元に届けられたのは、センサー型ではなく、ドットマーカーの画像認識によって採寸するタイプのものに変わったが、同サービスの狙いの本質は変わっていなかった。ZOZOSUITが目指したものは人間が服に合わせるのではなく、顕名個客に合わせた服を作ること、つまり、顕名サービスである(なお現在は、ZOZOSUITは配布を終了している)。

<ZOZOMAT登場>

2019年6月、ZOZOが次なるサービス “ZOZOMAT” をアナウンスした。今度は、足のサイズや形を計測するための「マット」を販売するというものだった。マットに足を乗せ、マットに施されたドットマーカー (水玉) をスマホのカメラで360度撮影することで足の3D計測を行う。足長・足幅・足囲・甲高など、複数箇所を計測できる。なるほど、ZOZOSUIT の技術が活きている。

さらに、ZOZOMATで計測したデータをもとに、自分の足に合った靴をお勧めしてくれる靴の専門モール「ZOZOSHOES」をスタートした。厳密にはオーダーメイドとは異なるが、「個客」一人ひとりの情報を参照し、その人に合わせた特別な提案をしてくれる、という意味で、まさに「顕名サービス」の代表とも言えるだろう。

なお、ZOZOMATはアナウンス後100万人以上が予約し、2020年2月末の配送開始以降、2週間で計測者数は30万人を超えた。3D計測の精度は高く、利用者の満足度も高いという。

<ファッション業界の変革>

前述の通り「顕名」つまり「一人ひとりのお客様」に合わせたサービスは旧来から存在する。オーダーメードの仕立て屋、一見さんお断りの小料理屋、他にもいろいろある。注目すべきは「デジタル技術」が、それをスケールさせることを可能にしたことである。

マスという言葉で分類されてきた「大衆」も、今や、一人ひとりを容易に特定することができ、ちょっとした技術の応用で、その個人に紐づく情報を調べ、蓄積できる。これまで大量生産、大量消費を前提としてきた匿名経済の市場が、顕名サービスで置き換えられる可能性さえある。これは、今後の経済モデルを考える上でも重要な変化である。

ZOZOSUITやZOZOMATは「一人ひとりに合った」服や靴を提供する、というコンセプトで立ち上がった。その本質は、個客を重視し、一人ひとりに最適な商品を提供しようとする考え方である。容易に想像できる通り、この考え方はファッション業界に広く応用が可能である。今後、さまざまな分野、商品で同様のサービスが立ち上がってくることを心待ちにしたい。

そうそう。一見さんお断りの小料理屋のように、自分の好みにあった、自分だけのための料理が手元に配達されるような出前のサービスも出てきてくれると嬉しいのだが (笑)。

(写真提供:株式会社ZOZO)

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第4回:行動で変わるサービス

<はじめに>

筆者は富山県に生まれた。地方都市によくある話で、同地では生活に自動車は必須である。会社に行く、食事に行く、友達に会いに行く、近所のスーパーに買物に行く、あらゆるシーンで自動車を使う。

最近、カーナビがよく喋る。昔と比べると、圧倒的に口数が増えた。どこの話好きかと思うほどひっきりなしに喋っていて、時と場所をわきまえることを知らない。おまけに、カーナビが運転を指導してくれることもある。
 「急ブレーキを検出しました。」
 「速度超過を検出しました。」
 「次回は速度変化の少ない運転を心がけましょう。」
いや、まったく。大きなお世話である (笑)。

妻は、この機能が嬉しいらしい。カーナビから褒められることはあっても、指導されることはないのだとか。妻のほうが (安全運転、という意味で) あきらかに運転は上手なようで、カーナビにそれを見抜かれているのがなんとも微妙な感じではあるが。

本連載のテーマ「顕名経済」は個客一人ひとりを特定し、個客に紐づく情報を参照することを前提とする。とすれば、運転者を特定し、運転という行為を情報として参照できるという事実は、関連市場の構造変化を示唆しているのではないか、というのが今回の話である。

<PAYDの登場>

2015年頃、PAYD (Pay As You Drive) と呼ばれるサービスが注目を集めた。自動車保険の新しいモデルである。

自動車を運転する頻度や走行時間・走行距離によって、事故に会う (事故を起こす) 確率は違うはずである。であれば、運転した時間や運転した距離に応じてリスク計算し、保険料を算出すべきである、という考え方が PAYD 型の自動車保険を生み出した。

それまで自動車保険は、自動車に紐付く保険と考えられてきた。実際、自動車を購入するときに契約する人がほとんどだろう。筆者が数年前に車を買ったときも、年払いで自動車保険を契約した。運転者を家族に限ることで保険料を抑えたが、もともとの契約の単位は自動車 (モノ) である。

自動車保険はいくつかの保険の組み合わせで提供される。相手方への補償 (対人補償保険、対物補償保険)、自分への補償 (人身傷害補償保険、搭乗者損害保険、他)、加えて、車両保険などがある。いずれも、契約対象の自動車が事故を起こした場合に適用される。

従来の自動車保険は、統計に基づいた事故リスクの計算が重要な意味を持つ。ある自動車が事故を起こす確率とその時の損害の大きさを予測することで保険料を算出する。優良ドライバー (ゴールド免許、過去の保険適用履歴) や年齢による優遇制度はあるが、あくまでも社会全体の統計上の数字を参照するだけである。運転時の情報を参照することはなく (その手段はなかった)、「事故」という結果に対して保険金が支払われるだけである。

一方で、自動車保険は「運転」という行為に紐づくべき、と考えにも一理ありそうだ。事故も、その結果としての対人・対物の損害や人身傷害も、運転という行為に起因する。車両保険が自動車の価値を基準に計算されるのは理解できるが、それでも事故を起こすリスクは運転という行為から派生するものである。

デジタル時代、リスク計算は詳細化された。様々なデータを取得・蓄積・分析する技術が登場し、今では、何時間、あるいはどの程度の距離を走行すると、どの程度の事故が何回程度発生するか、という数字も把握できるようになってきた。

「運転」という「行為」に関する情報が参照できるのであれば、リスクや保険料の計算もそれにあわせて変えるべきである。月に1〜2回しか運転しない人と、1日8時間以上運転する人で、リスクは違って当たり前である。運転していないときのリスクを計算する必要はない。

PAYDの登場は自動車保険の考え方を大きく変えた。簡単なものでは、自動車を運転する前後にスマホ上のアプリをタップするだけで、「誰が」「いつ」「どこ」から「どこ」まで運転しているかをリアルタイムに把握する。結果、走行時間や走行距離に応じて保険料の計算が可能になった。運転という「行為」に紐付いて保険料を設定する考え方は、まさに本連載の本題である「顕名」の取引そのものである。

<PHYDの登場>

その後、PHYD (Pay How You Drive) が登場した。PAYDが運転した時間や距離に応じた保険だったのに対して、PHYDは運転の仕方、運転の上手・下手を判断する。例えば、急発進や急ブレーキが少ない、カーブの曲がり方が上手、など、安全な運転を心がけている人は保険料が安くなる (もしくはキャッシュバックがある) という仕組みである。

利用者の行動 (この場合は「運転」) の内容によってサービスが変わる、という意味で PHYD は興味深い。誰がどんな行動をしたかがサービスの内容を決める。より進化した顕名サービスとも言える。

技術的には運転の状態を計測・記録し、それを保険会社が参照する。過去に集めた統計データに基づいて安全運転のレベルと対応するリスクを把握していることを前提に、顕名個客の運転レベルを参照して保険料 (もしくはキャッシュバック) を算出する。細かな行動の内容までがデータ化されることに驚きと若干の抵抗はあるが、安全を心がけることで保険料の負担が減るのは理にかなっているとも言える。

こうなると、カーナビの声も重要な意味を持ってくる。私が運転すると保険料負担が増えると言われるのも悔しいので、カーナビのご指導に従い、安全運転を心がけるべきなのかもしれない (いや、本来は、事故のリスクを低減させることが目的なのだが。笑)。

<従来の保険とテレマティクス保険>

PAYD (Pay As You Drive) やPHYD (Pay How You Drive) は「テレマティクス保険」に分類される。テレマティクスとは「テレコミュニケーション (通信)」と「インフォマティクス (情報学)」を組み合わせた造語で、最近では自動車などの移動体に情報通信技術を組み合わせたサービスの総称として使われている。

従来、すなわち、テレマティクス保険が登場する前、自動車保険はモノとしての自動車を対象にリスク計算を行っていたのは前述の通りである。デジタル技術の登場は、様々なデータの取得・蓄積・分析を可能にした。情報技術の利用が、運転中の走行データを収集し、保険料算出に参照できるようになった。今では「誰が」、「いつ」、「どこで」、「どのように」運転しているか、という「行動」情報に基づいて内容が変わるサービスが登場した。

デジタル技術の浸透は「匿名経済」から「顕名経済」へのシフトを促す。従来、モノとしての自動車に紐づく事故情報を統計化してリスク計算をしていたのは、典型的な匿名経済の名残と言える。デジタル時代には、個客一人ひとりを特定し、個客に紐づく情報を参照することで、その行動に応じたサービスを提供する「顕名取引」が注目を集める。

取得できる情報は多様化・詳細化の一途をたどる。今後、さらに多様で便利なサービスが出てくることが期待される。もっとも、そうなると運転の一挙一動にいたるまで、カーナビに細かく指導されることになるのかもしれないが (笑)。

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第3回:点から線・面への広がり

<はじめに>

少し前、中国でシェアサイクルが大人気になった。2018年、上海出張の際も街は多数のカラフルな自転車に溢れていたことを覚えている。利用者はどこで自転車に乗って、どこで乗り捨てても構わない。スマートフォンを近づけて解錠し、乗り捨てた際に利用した時間を計算する。30分で1元〜2元(15円〜30円程度)だという。

シェアサイクルは、スマホを介して「誰が」自転車の利用者かを特定することを前提とする。さらに「いつ」「どこからどこまで」利用したかも把握する。同国でのシェアサイクルのビジネスはなかなか難しいとも言われるが、そのサービスモデルは大きなヒントを教えてくれる。

2020年の今、シェアサイクルのサービスは「へー、便利そうだね」くらいの感覚で受け取られることが多い。しかし、デジタル時代のサービスを考えるにあたっては、それが大きな変革を背景にしていることを理解しておくことは有用である。

今回はシェアサイクルをヒントに、デジタル時代のサービスモデルが従来「取引」と考えていたものと何が違うのかを整理し、顕名時代のサービスのあり方を考えてみたい。

<従来の取引と POS (Point of Sales) の意味>

整理のために振り返ってみよう。

従来の経済学では、取引を「財やサービスを貨幣と交換する」ことと考える。前回まで繰り返し説明したとおり、取引の中心は「モノとカネ」であり「お客様が誰か」は重要ではない (匿名取引)。

さらに、商品の提供者は「モノとカネを交換」するタイミングを重視してきたことも容易に想像できる。例えば、コンビニでは商品とお金を交換する行為が「取引」であり、店員はPOS端末にそれを記録する。「モノとカネの交換」が行われたあと、購入した人がどのようにその商品を使っているか (消費しているか) は把握していない。

POS = Point of Sales という言葉に、従来の取引の本質が表現されている。つまり、

 「匿名」の客に「モノを販売」する「点」

を重視するのが従来の経済モデルの中心である。

<シェアサイクルの衝撃>

シェアサイクルのサービスの登場は衝撃である。直感的に

 「あれ?何か大きな変化が起こっているのでは?」

と感じた。利用者をスマホで特定する (後日、本連載の後半で紹介するが、利用者の属性も参照する) ため「顕名取引」を前提とすることは容易に理解できるが、もう一歩踏み込んで考えてみると、さらに大きな変化に気づく。

シェアサイクルの提供者は「利用者がどのように使っているか」を把握する。前述の通り「誰が」「いつ」「どこからどこまで」自転車を利用したか、の情報が鍵であり、

 「顕名」の個客が「サービスを利用」する「時間と空間」

を参照することが取引の前提である。

PoS (Point of Sales) ではなく PoU (Point of Use) を重視する。この変化は興味深い。

デジタルテクノロジーの登場は様々な情報の参照を可能にした。従来 (30年前) には取得できる情報が限られていたため「カネとモノを交換」する PoS (Point of Sales) の情報で取引を管理することが理にかなっていた。今では顕名個客がサービスを利用している状態、すなわち PoU (Point of Use) の情報が容易に取得できる。と考えれば、デジタル時代に即した取引モデルやサービスの形が生まれることは想像に易しい。

<端末を持つことが価値を生み出す時代>

otta (*1) は「地域のみんなで見守る」をコンセプトに見守りサービスを提供する。例えば、子供が専用の見守り端末を持ち歩いているだけで、学校にいる、下校した、家に帰ってきた、などの通知を受けることで親が安心できる、という。

(*1) https://www.otta.me/

学校や公園、通学路など、見守りが必要な場所に整備された検知ポイントや地域の見守り人が持つ (専用アプリをインストールした) スマートフォンが専用端末を検知するので、要望があれば行動履歴を把握することも可能だという。

このサービスは

 「顕名」の個客 (子供) が「端末を持って」いる「時間と空間」

を把握することで、子供の見守りを実現する。

サービスを利用する親子は「端末」が欲しいのではない。端末を持つことで生まれる「意味 ( = 安心)」を求めている。PoS (Point of Sales) には重要な意味はなく、PoU (Point of Use) が意味を持つ。PoU が生み出す価値をサービス化した良い事例と言えるだろう。

なお、otta は子供の見守りを目的としてサービスを開始したが、今では高齢者の見守りも手掛けている。端末を持つことが意味を持つ (=価値を生み出す) という変化が本質だと考えれば、今後、さらなる応用もありそうだ。

<おわりに>

今回は中国で注目を集めたシェアサイクルをヒントに顕名市場における取引モデルの変化について考察した。「匿名の客を対象にモノとカネを交換する点」を重視し、PoS (Point of Sales) で取引を把握しようとする従来の匿名取引と、「顕名個客にサービスを利用する時間と空間」を前提とし、PoU (Point of Use) の把握を重視する顕名取引では、その考え方がまったく違うことを紹介した。

otta の例で紹介したように「PoU (Point of Use) が意味を持つ」=「価値を生み出す」サービスがいくつも登場することにも注目したい。

デジタルテクノロジーの発展と浸透は「取引」の形を変える。モノとカネを交換する「点」から、サービスを利用する「時間軸」と「空間軸」を考える時代に。まさに、取引が、点から線・面に広がっていくのを実感する。これも、匿名市場から顕名市場への変化のひとつである。

本内容の引用・転載を禁止します。