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第3回:点から線・面への広がり

<はじめに>

少し前、中国でシェアサイクルが大人気になった。2018年、上海出張の際も街は多数のカラフルな自転車に溢れていたことを覚えている。利用者はどこで自転車に乗って、どこで乗り捨てても構わない。スマートフォンを近づけて解錠し、乗り捨てた際に利用した時間を計算する。30分で1元〜2元(15円〜30円程度)だという。

シェアサイクルは、スマホを介して「誰が」自転車の利用者かを特定することを前提とする。さらに「いつ」「どこからどこまで」利用したかも把握する。同国でのシェアサイクルのビジネスはなかなか難しいとも言われるが、そのサービスモデルは大きなヒントを教えてくれる。

2020年の今、シェアサイクルのサービスは「へー、便利そうだね」くらいの感覚で受け取られることが多い。しかし、デジタル時代のサービスを考えるにあたっては、それが大きな変革を背景にしていることを理解しておくことは有用である。

今回はシェアサイクルをヒントに、デジタル時代のサービスモデルが従来「取引」と考えていたものと何が違うのかを整理し、顕名時代のサービスのあり方を考えてみたい。

<従来の取引と POS (Point of Sales) の意味>

整理のために振り返ってみよう。

従来の経済学では、取引を「財やサービスを貨幣と交換する」ことと考える。前回まで繰り返し説明したとおり、取引の中心は「モノとカネ」であり「お客様が誰か」は重要ではない (匿名取引)。

さらに、商品の提供者は「モノとカネを交換」するタイミングを重視してきたことも容易に想像できる。例えば、コンビニでは商品とお金を交換する行為が「取引」であり、店員はPOS端末にそれを記録する。「モノとカネの交換」が行われたあと、購入した人がどのようにその商品を使っているか (消費しているか) は把握していない。

POS = Point of Sales という言葉に、従来の取引の本質が表現されている。つまり、

 「匿名」の客に「モノを販売」する「点」

を重視するのが従来の経済モデルの中心である。

<シェアサイクルの衝撃>

シェアサイクルのサービスの登場は衝撃である。直感的に

 「あれ?何か大きな変化が起こっているのでは?」

と感じた。利用者をスマホで特定する (後日、本連載の後半で紹介するが、利用者の属性も参照する) ため「顕名取引」を前提とすることは容易に理解できるが、もう一歩踏み込んで考えてみると、さらに大きな変化に気づく。

シェアサイクルの提供者は「利用者がどのように使っているか」を把握する。前述の通り「誰が」「いつ」「どこからどこまで」自転車を利用したか、の情報が鍵であり、

 「顕名」の個客が「サービスを利用」する「時間と空間」

を参照することが取引の前提である。

PoS (Point of Sales) ではなく PoU (Point of Use) を重視する。この変化は興味深い。

デジタルテクノロジーの登場は様々な情報の参照を可能にした。従来 (30年前) には取得できる情報が限られていたため「カネとモノを交換」する PoS (Point of Sales) の情報で取引を管理することが理にかなっていた。今では顕名個客がサービスを利用している状態、すなわち PoU (Point of Use) の情報が容易に取得できる。と考えれば、デジタル時代に即した取引モデルやサービスの形が生まれることは想像に易しい。

<端末を持つことが価値を生み出す時代>

otta (*1) は「地域のみんなで見守る」をコンセプトに見守りサービスを提供する。例えば、子供が専用の見守り端末を持ち歩いているだけで、学校にいる、下校した、家に帰ってきた、などの通知を受けることで親が安心できる、という。

(*1) https://www.otta.me/

学校や公園、通学路など、見守りが必要な場所に整備された検知ポイントや地域の見守り人が持つ (専用アプリをインストールした) スマートフォンが専用端末を検知するので、要望があれば行動履歴を把握することも可能だという。

このサービスは

 「顕名」の個客 (子供) が「端末を持って」いる「時間と空間」

を把握することで、子供の見守りを実現する。

サービスを利用する親子は「端末」が欲しいのではない。端末を持つことで生まれる「意味 ( = 安心)」を求めている。PoS (Point of Sales) には重要な意味はなく、PoU (Point of Use) が意味を持つ。PoU が生み出す価値をサービス化した良い事例と言えるだろう。

なお、otta は子供の見守りを目的としてサービスを開始したが、今では高齢者の見守りも手掛けている。端末を持つことが意味を持つ (=価値を生み出す) という変化が本質だと考えれば、今後、さらなる応用もありそうだ。

<おわりに>

今回は中国で注目を集めたシェアサイクルをヒントに顕名市場における取引モデルの変化について考察した。「匿名の客を対象にモノとカネを交換する点」を重視し、PoS (Point of Sales) で取引を把握しようとする従来の匿名取引と、「顕名個客にサービスを利用する時間と空間」を前提とし、PoU (Point of Use) の把握を重視する顕名取引では、その考え方がまったく違うことを紹介した。

otta の例で紹介したように「PoU (Point of Use) が意味を持つ」=「価値を生み出す」サービスがいくつも登場することにも注目したい。

デジタルテクノロジーの発展と浸透は「取引」の形を変える。モノとカネを交換する「点」から、サービスを利用する「時間軸」と「空間軸」を考える時代に。まさに、取引が、点から線・面に広がっていくのを実感する。これも、匿名市場から顕名市場への変化のひとつである。

本内容の引用・転載を禁止します。

第2回:デジタル化するのはモノではなく体験そのもの

<はじめに>

文部科学省がデジタル教科書を推進している。同省のホームページ (*1) では、デジタル教科書を「紙の教科書の内容の全部をそのまま記録した電磁的記録である教材」と説明している。どうやら、紙の教科書と同じ内容をタブレットなどで表示する、らしい。

(*1) https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/seido/1407731.htm

はて。それは、媒体が紙から電子的なデバイスに変わること以上に、どんなメリットがあるのだろうか。この説明に、少なからぬ違和感を感じるのはなぜだろうか。

デジタル教科書の議論は、電子書籍のそれに近い。電子書籍の話をすると「紙の本が電子化される」ことと考える人が多い。電子化によって、たくさんの本を持ち歩かなくていい、ダウンロードできる、などのメリットがあるという。しかし、それは本質なのだろうか。

前回は Amazon Books を例に顕名取引が始まっていることを紹介した。今回は、電子書籍の例を参考に、デジタルがもたらす匿名市場から顕名市場への変化の本質を考えてみたい。また、それをヒントとして、教育のデジタル化の方向性についても言及してみたい。

<Amazon Kindle の衝撃>

Kindle は Amazon が提供する電子書籍リーダーである。もともと、専用端末として販売されていたが、最近ではタブレットやスマホ向けのアプリとして無料で提供されている。自宅では大きな画面のタブレットで読書をしていて、通勤中は小さなスマホで続きを読む、ということも簡単にできる。物理的な本を持ち歩く必要もなく、何百冊という本がいつでも読めるのは、なるほど便利だと感じる。

ところで。ここであらためて考えてみて欲しい。異なる端末で続きを読むことができる。ということは、Amazon は、私がどの本を何ページまで読んでいるかを知っている、ということではないだろうか?

考えてみると、Amazon はいろいろな情報を集めていることがわかる。検索窓に入れた文字列は私が探している本のタイトルや興味を持っているキーワードを表現している。そこで、どんな本を見つけたか、どの本に興味をもって (クリックしたか)、どの本に興味を持たなかったか (クリックしなかったか) も簡単に分かる。今、本棚がどうなっていて、どの本を何ページまで読んだかも知っている。さらには、ある本は3回も読んだ、とか、この本は一晩で全部読み終わったとか、あの本は途中で寝落ちしてるとか、この本は手もついてない「積読」状態だとか、簡単にわかってしまうのである。

そう考えると、本の媒体が紙から電子デバイスに変わった、という次元の話ではなく、利用者の読書に関わる「体験」全体がデジタル化されている、と表現するほうが自然ではないだろうか。

<体験のデジタル化>

Kindle は、利用者の読書体験全体をデジタル化する。前回分を読まれた方には容易に想像できる通り、その体験は個客一人ひとりに紐づくものである。誰が、どのような読書体験をしていて、知識レベルはどの程度で、今、どんな領域に興味を持っていて、過去に読んだ本のリストを参考にすると、次にどんな本を読むと知的体験を広げられるか、などを、一人ひとりにあわせて「顕名」で考えてくれる (AIが、であるが…)。Amazon がオススメする本に、妙に惹かれるものが多いのも納得である。

街中の書店でお店がオススメしてくれる本は、その書店が「売りたい」と思っている本だろう。あるいは、世間で注目を集めている話題の本かもしれない。いずれにせよ、あなたの読書体験には基づかない「匿名」のオススメ情報である。

体験のデジタル化に基づいて個客一人ひとりにあわせた提案をしてくれる「顕名のオススメ」と、お店(あるいは市場)の事情で売り手が考える「匿名のオススメ」のどちらが自分の読書体験を豊かにしてくれるか。結論は明らかだろう。

顕名取引では個客価値の創造が重要な意味を持つ。体験のデジタル化を通して個客一人ひとりにより良い体験を提供することで、匿名では得られなかった価値を生み出すことが、顕名時代の競争力の源泉である。

<デジタル教科書にひとこと>

あらためてデジタル教科書について考えてみたい。冒頭の、文部科学省が考えるデジタル教科書には「体験」をデジタル化しようという意図は感じられない。しかし、今の時代に、すべての生徒に同じ教材、同じ内容、同じ進度で教育を強制し、同じ試験を受けて同じ評価軸で順位付けするが、本当に必要なのだろうか。

ある生徒が、どこに興味を持っていて、どのテーマについて真剣に取り組んでいるのか、どこが苦手なのか、どんな話題を提供すると個性が活かせるのか、といったことを前提に、一人ひとりに特別な教育体験が提供できることがデジタルの強みである。

多様性が重視される時代、一人ひとりの個性を活かし、その子の良さを伸ばすための教育のためにこそ、デジタルテクノロジーを活用する場がある。「モノ」としての教科書の媒体が紙から電子デバイスに変わる、という話ではなく、教育の「体験」そのものを大きく変えるためにこそデジタル化の議論をすべきであろう。

<おわりに>

今回は電子書籍の例を参考に「体験のデジタル化」について考えてみた。「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことは顕名取引の特徴のひとつである。モノの売り方を変える、という次元の話ではなく、お客様さま一人ひとりの価値観を理解し、より価値ある体験を提供することが重要であり、そこに価値創造のヒントがある。 デジタル教科書についての考察も興味深い。「モノ」としての教科書ではなく、一人ひとりの生徒の「体験」を重視し、顕名の教育を実現していくことこそデジタルの強みである、と考えると、デジタル時代に向けて、教育も大きく変わる可能性がありそうだ。

※本内容の引用・転載を禁止します。

第1回:個客一人ひとりに特別な価値を提供する時代に

<はじめに>

Amazon で本を購入すると、面白そうな書籍が次々と紹介される。自分が過去に読んだ本の履歴からのリコメンド(オススメ)が思ったより精度が高いことに驚く。つい買ってしまって積読 (ツンドク) が増える、と感じている人もいることだろう。

一方、本屋でちょっと恥ずかしい雑誌を買うときはやっぱり現金で、なんてことはないだろうか? (あれ? 私だけ? 爆) 自分の購買履歴を記録に残したくないときには現金が便利である (笑)。

ひと昔前は現金取引が当たり前だった。後者の例のように、お客様が「誰か」を意識する必要がない取引であり、これを「匿名取引」と呼ぶ。一方、前者は、お客様を特定する「顕名取引」に分類される。顕名取引は「個客」、つまり、一人ひとりのお客様にあわせて取引を行うことを特徴とする。

デジタルがもたらす変革のひとつは「つながり」である。デジタルが前提の「つながりの市場」では「取引の相手が誰か」を容易に特定することができる。取引は個客を対象とし、取引が匿名から顕名にシフトすることは自然な流れである。

本コラムでは、全12回で、匿名市場から顕名市場へのシフトがどのように進んでいるのか、顕名市場では取引の前提がどう変わるか、企業がどんな価値を提供するようになるのか、などについて考える。本コラムの考察がビジネス戦略を考えるヒントになれば幸いである。

<Amazon Books での発見>

1年ほど前のこと、米国西海岸 (San Jose) で Amazon Books に立ち寄った。Amazon が運営する実店舗の書店である。見た目は普通の本屋さんだが、“What’s your price?” (あなたの値段はいくら?) という表示が目をひいた。

立ち寄った Amazon Books では、本や商品棚に値札はなく、代わりに、商品(書籍)に QRコードが貼ってあった。事前に、スマホにアプリをインストールしておいて、QRコードを読み取ると「あなたの値段 (your price)」が表示される、という仕組みである。

”What’s your price?” というメッセージは分かりやすい。あなたが誰かによって取引の内容が違う、ということを端的に表現している。Amazon Prime に参加する人にはあらかじめ割引がきく、あるいは、特定のキャンペーンに参加していれば、該当商品に割引がきく、などは分かりやすいだろう。さらに、少し応用すれば、過去にあなたが Amazon からオススメされた書籍は◯%オフ、なんてことも技術的には可能である。

<匿名の時代>

考えてみると、身近にある取引は「匿名」を前提とすることが当たり前だった。例えば、コンビニエンスストアで500円のお弁当を買うことを考えてみよう。そこでは、お弁当と500円玉を交換することで取引が成立する。お客様が誰かは関係ない。そのとき、店員さんが見ているのはあなたではなく、500円玉である。

従来の経済学では取引を「財やサービスを貨幣と交換する」と考える。モノとカネを交換することで取引が成立するので、これを「交換の市場」と呼ぶ。取引の定義が物語っている通り、そこでは、お客様が誰かは関係ない。

匿名取引の背景には大量生産・大量消費の考え方がある。経済学は産業革命後の市場構造や企業活動を学術的に捉えてきた。膨大な数の事例研究や深い議論を重ねてきた経済学だが、デジタル時代よりずっと前に骨格ができあがったことは否めない。そこでは、たくさんのモノを作って、たくさんのヒトが買う。モノの値段と、それを買うヒトの数が重要であり、一人ひとりのお客様が誰か、ということは重視されなかった。

<顕名へのシフト>

一方、デジタルの時代、特にキャッシュレスが浸透してくると、個客、すなわち、お客様さまが誰かということは簡単に分かる。Amazon Book の事例が示す通り、個客一人ひとりを特定できるのであれば、そのお客様にあわせて商品やサービスを提供しようと考えるのは自然な発想である。

デジタルがもたらした「つながり」は取引の前提条件を変える。個客を特定し、個客に関わる情報が参照できるようになる。匿名取引ではモノが価値を持つと考えられたが、個客を特定する市場では、個客の価値を最大化することを目指す。つまり、顕名市場では「個客一人ひとりに特別な価値を提供する」ことが重視される。

デジタルの時代、モノの価値よりも個客が得る価値が重視される。個客の価値感を理解し、個客一人ひとりが納得し、満足できる商品やサービスを提供することが、ビジネスの差別化要因であり、成長の源泉になる。

<おわりに>

デジタルは取引の前提を大きく変えた。デジタルによる「つながり」が、匿名市場から顕名市場へのシフトを後押ししている、とも言える。

次回以降、つながりの市場において、どのような情報が参照され、取引の前提がどのように変わっていくか、顕名市場のサービスの構造がどのように変わってきているかについて紹介する。本シリーズの後半では、デジタル時代の企業戦略や企業経営はどう変わっていくべきか、についても考察したい。

※本内容の引用・転載を禁止します。