第1回:個客一人ひとりに特別な価値を提供する時代に

<はじめに>

Amazon で本を購入すると、面白そうな書籍が次々と紹介される。自分が過去に読んだ本の履歴からのリコメンド(オススメ)が思ったより精度が高いことに驚く。つい買ってしまって積読 (ツンドク) が増える、と感じている人もいることだろう。

一方、本屋でちょっと恥ずかしい雑誌を買うときはやっぱり現金で、なんてことはないだろうか? (あれ? 私だけ? 爆) 自分の購買履歴を記録に残したくないときには現金が便利である (笑)。

ひと昔前は現金取引が当たり前だった。後者の例のように、お客様が「誰か」を意識する必要がない取引であり、これを「匿名取引」と呼ぶ。一方、前者は、お客様を特定する「顕名取引」に分類される。顕名取引は「個客」、つまり、一人ひとりのお客様にあわせて取引を行うことを特徴とする。

デジタルがもたらす変革のひとつは「つながり」である。デジタルが前提の「つながりの市場」では「取引の相手が誰か」を容易に特定することができる。取引は個客を対象とし、取引が匿名から顕名にシフトすることは自然な流れである。

本コラムでは、全12回で、匿名市場から顕名市場へのシフトがどのように進んでいるのか、顕名市場では取引の前提がどう変わるか、企業がどんな価値を提供するようになるのか、などについて考える。本コラムの考察がビジネス戦略を考えるヒントになれば幸いである。

<Amazon Books での発見>

1年ほど前のこと、米国西海岸 (San Jose) で Amazon Books に立ち寄った。Amazon が運営する実店舗の書店である。見た目は普通の本屋さんだが、“What’s your price?” (あなたの値段はいくら?) という表示が目をひいた。

立ち寄った Amazon Books では、本や商品棚に値札はなく、代わりに、商品(書籍)に QRコードが貼ってあった。事前に、スマホにアプリをインストールしておいて、QRコードを読み取ると「あなたの値段 (your price)」が表示される、という仕組みである。

”What’s your price?” というメッセージは分かりやすい。あなたが誰かによって取引の内容が違う、ということを端的に表現している。Amazon Prime に参加する人にはあらかじめ割引がきく、あるいは、特定のキャンペーンに参加していれば、該当商品に割引がきく、などは分かりやすいだろう。さらに、少し応用すれば、過去にあなたが Amazon からオススメされた書籍は◯%オフ、なんてことも技術的には可能である。

<匿名の時代>

考えてみると、身近にある取引は「匿名」を前提とすることが当たり前だった。例えば、コンビニエンスストアで500円のお弁当を買うことを考えてみよう。そこでは、お弁当と500円玉を交換することで取引が成立する。お客様が誰かは関係ない。そのとき、店員さんが見ているのはあなたではなく、500円玉である。

従来の経済学では取引を「財やサービスを貨幣と交換する」と考える。モノとカネを交換することで取引が成立するので、これを「交換の市場」と呼ぶ。取引の定義が物語っている通り、そこでは、お客様が誰かは関係ない。

匿名取引の背景には大量生産・大量消費の考え方がある。経済学は産業革命後の市場構造や企業活動を学術的に捉えてきた。膨大な数の事例研究や深い議論を重ねてきた経済学だが、デジタル時代よりずっと前に骨格ができあがったことは否めない。そこでは、たくさんのモノを作って、たくさんのヒトが買う。モノの値段と、それを買うヒトの数が重要であり、一人ひとりのお客様が誰か、ということは重視されなかった。

<顕名へのシフト>

一方、デジタルの時代、特にキャッシュレスが浸透してくると、個客、すなわち、お客様さまが誰かということは簡単に分かる。Amazon Book の事例が示す通り、個客一人ひとりを特定できるのであれば、そのお客様にあわせて商品やサービスを提供しようと考えるのは自然な発想である。

デジタルがもたらした「つながり」は取引の前提条件を変える。個客を特定し、個客に関わる情報が参照できるようになる。匿名取引ではモノが価値を持つと考えられたが、個客を特定する市場では、個客の価値を最大化することを目指す。つまり、顕名市場では「個客一人ひとりに特別な価値を提供する」ことが重視される。

デジタルの時代、モノの価値よりも個客が得る価値が重視される。個客の価値感を理解し、個客一人ひとりが納得し、満足できる商品やサービスを提供することが、ビジネスの差別化要因であり、成長の源泉になる。

<おわりに>

デジタルは取引の前提を大きく変えた。デジタルによる「つながり」が、匿名市場から顕名市場へのシフトを後押ししている、とも言える。

次回以降、つながりの市場において、どのような情報が参照され、取引の前提がどのように変わっていくか、顕名市場のサービスの構造がどのように変わってきているかについて紹介する。本シリーズの後半では、デジタル時代の企業戦略や企業経営はどう変わっていくべきか、についても考察したい。

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